郷愁のRPN電卓

 

実は全く現役ですが・・・

タイトルに「郷愁の」と書いたが、私は現役のRPN電卓愛用者である。愛用者というより、RPN電卓以外は慣れていないので使えない。自宅では32SIIを、事務所では48G+を使っており、どちらも十数年使い込んでいるが壊れる気配はない。32SIIに関しては新品未開封のものを2台予備に持っている。私が死ぬまで(電卓も使えないほど衰えるまで)RPN電卓が使えれば幸せである。

 

HP 32SII(クリックで拡大)

 

HP 48G+(クリックで拡大)

 

「いきなりRPNや32SIIなどと言われてもわけがわからない」という方は、私は前説しないのでGoogleで調べて下さい。これは偏った趣味に基づいたコラムです。もし興味が持てたら帰ってきて下さい。

 

RPN電卓の一大事件

RPN電卓はHP(ヒューレットパッカード)が70年代から作り続けていた。HP以外はほぼ作っていないので、RPN電卓イコールHP電卓ということになる。長くRPN界に平和は続いていたが、21世紀に入って大波乱が起きた。HPが電卓事業を中止するというアナウンスを行ったのである。大慌てした私を含めた愛用者達はRPN電卓の確保に走り、在庫はあっというまに市場から消えていった。

この時私はRPN電卓を作らなければ将来(私が)困ると考え「RPN電卓開発計画」というムーブメントを起こした。もう十年以上前のことであり誰も覚えていないだろうと思っていたが、Wikipedia「安原製作所」に記述があることに気づいた。

   
 

RPN電卓開発計画

有志によるRPN式(逆ポーランド方式)電卓の開発計画があった。RPN式は、ヒューレット・パッカード(HP社)などの電卓が採用している計算入力順の方式で、技術者や金融の専門家などに根強い人気がある。日本ヒューレット・パッカードによる輸入・販売が終了し、国内でRPN式電卓を入手することは困難になったため、少量生産でも安価になってきたカスタムLSIを利用して、この電卓を独自に開発しようとしたが、結局ジュライがHP社などのRPN式電卓の輸入代理店になったこともあり頓挫した。

 

私は西和彦ではないので自身に関する記事などそのままにしておくが、ここで多少修正・補足しておこう。

まず私が「RPN電卓開発計画」を始めたのは国内への輸入・販売が終了したからではなく、HPが電卓事業を完全に止めるとアナウンスしたからである。物があるのなら個人輸入でも何でもすればよい。このころのHPはあのフィオリーナの時代。体制・ポリシーが大きく変化した時である。儲からない事業などにべもなく整理されるおそれがあった。

「RPN電卓開発計画」が頓挫したのは、その時(2004年)に安原製作所が一旦会社をたたんでしまったからである。

結局その後HPは方針転換し電卓事業を継続することにした。しかしそれまで作り続けていた旧製品の製造はばっさりと打ち切られてしまい、ラインナップは一新された。現行製品は色々な点で残念な造りになってしまった(これについては後述)。まあ何にしろ本家HPがRPN電卓を作り続けることになったのだから、私があえて作る必要は無くなったのだ。

 

旧HP電卓のエキセントリックさ

RPN電卓の最大の魅力はもちろん操作方法がRPN式だということである。これについては私がわざわざ語る必要はなく、Googleで「RPN」を検索すれば多くの人が熱く語っている。一旦RPN式の便利さを知ってしまった者は後には戻れないのだ。

ところがRPN電卓にはもう一つ悩ましい魅力がある。それはRPN電卓を作っていたのはほぼHPだけで、旧HP電卓(電卓事業停止騒動以前の機種)は他の物と一線を画するエキセントリックな姿・構造・操作感を持っているということである。このためRPNという要素と旧HP電卓の特異な造りが複雑に混ざり合い、異常な魅力を発散しているのだ。旧HP電卓の魅力とは、

 

1) 持つと「もっちり」している

「電卓に何がもっちりだ」という声が聞こえてきそうだが、多分それは持ったことがない人。ユーザーなら誰でもうなずく。しかもこのもっちり感にはちゃんと理由がある。旧HP電卓はプラスチック製だが、他の電卓に比べて明らかに材料の硬度が低く柔らかい。その分肉厚なので重くてもっちりした感触になるのだ。この材料が使われている理由の一つがその特異なキー構造にある。

キーと本体(上カバー)が一体なのだ。

この構造については次に述べる。「電卓を持った感触など、実用上どうでもよい」という貴兄、正解ですよ。我々にとっての電卓は職人にとっての道具である。あなたが何かの職人さんなら、私はあなたに仕事は頼まない。

 

2) 異次元のキーフィーリング

普通の電卓なら、本体(上カバー)に沢山の穴が開いておりそこにキーがはめ込まれている。ところが旧HP電卓はキーと本体が一体で、細い2本の棒でつながっているのだ。この棒がたわむことによりキーの押し下げが行われる。だからキーにがたつきが全く無く、非常にかっちりとした押し下げフィーリングになるのだ。

これは文章で書いてもわからないので、もったいないが旧HP電卓を1台分解してみる。

 

HP17BIIを分解する。(さすがに32SIIを分解する気はない。)

 

裏面に全くネジが見当たらない。

 

ネジはゴム足で隠されていることも多いが、下には何もない。

 

裏面電池室内部にもネジはないが、妙な円形のくぼみが4ヶ所。(これが重要。)

 

この「ネジが見当たらない」という段階で、旧HP電卓のエキセントリックな構造が垣間見えてきたと思う。

 

分解するには前面金属プレートを剥がす必要がある。この段階で再起不能となる。

 

剥がしたところ。ああもったいない。

 

もうおわかり頂けたと思う。本体(上カバー)とキーは一体で、細い2本の棒でつながっている。

 

旧HP電卓のキーは下がるのではなく倒れ込むのである。だからキートップにも傾斜がついている。電卓を机の上に置いて使うことを考えて欲しい。電卓は正面でなく下側から見上げることになり、指も下側から伸ばしてキーを押す。この傾斜はキーの視認性・押し心地の両面で非常に好ましいのだ。

「つないでいる棒が折れたらそれまででは?」という問いに対してはその通りだと言うしかない。しかし私も長年使っているが折れたという実例はない。折れないために選ばれたのがこの「もっちりした」材料なのだろう。

 

3) 修理を拒む構造

前面金属プレートを剥がすところまでは終わった。それでは上下カバーを分割するにはどうすれば良いのか。繰り返すがネジは見当たらない。ポイントは電池室内と表側キー間(各4ヶ所)にある円形のくぼみである。

 

キー間にある円形のくぼみ

 

これらはプラスチックのピンを溶かして潰した跡である。つまりHP電卓は焼き潰しという方法で部品を接合しており、

壊さなければ分解が不可能なのだ。

「じゃあ修理できないじゃないか」と言われればそういうだと答えるしかない。実際旧HP電卓は修理を受け付けていない。保証期間中に故障したら、修理ではなく交換処理になる。

修理できないことが美点なのかと言えば返答に困るが、そもそも電卓を修理に出した経験がある人はいるだろうか?私はない。修理を考慮しないというのは製品に対する一種のコンセプトである。「不良品は交換します。けど使い込んで壊れて、そしてあなたがこの製品を気に入ってくれているのならば、また新しいのを買ってね」ということだ。今は電卓の値段が安くなりわざわざ修理をする意味もなくなったが、HP電卓は昔からこのポリシーで商売をしている。

焼き潰した部分をドリルで破壊すれば上下カバーを分割できる。当然元には戻らない。

 

本当にもったいないなあ。

 

金属の地板(ベースになる板)と前カバーも無数の焼き潰しで接合されている。
ネジは1本も使っていない。病的なほど。

 

 

上カバー(キー一体型)を単体にしてみると特異な構造がよくわかる。これ全体が1個の部品だ。プラモデルの部品のようだ。

 

4) 絶対消えないキートップ文字

電卓を使い込むとキートップの文字がこすれて消えてゆき、しまいには見えなくなってしまう。ところが旧HP電卓ではそれが起こらない。本コラムの頭に載せた私愛用の32SIIと48G+をご覧頂きたい。キートップの文字は全くかすれておらず、新品と同じ状態を保っている。これには大変な秘密が隠されている。

 

文字は印刷ではないのだ。

 

キーを切断して断面を見てみると、とんでもない代物だということがわかる。

 

【ここで少し広告】 上の写真は弊社製品である超マクロレンズ「NANOHA」で撮影しました。 画像横方向の大きさは3.5mm程度です。文字部分の厚さは50ミクロン(=0.05mm)程度しかありませんが、はっきり確認出来ます。超マクロ撮影にご興味がおありの方は是非お買い求め下さい。

 

 

文字は別の材料で作られ、キーに埋め込まれているのだ。

つまり

象嵌加工である。

 

 

私はプラスチック成形は専門外なのでどうやってこの象嵌加工を行っているのかはわからない。しかし印刷に比べてはるかに手間とコストがかかることはわかる。何でキートップをこれほど高級な造りにしたのかは私には明確に説明出来ない。(理由はいくつか想像できるが。)しかし、このキートップだけでも旧HP電卓に万札をはたく値打ちがあると思うのは入れ込みすぎだろうか。

「キートップの文字が消えないことにこれほどこだわっているのだ。旧HP電卓はよっぽど耐久性があるのだろう。」と思われるかもしれないが、壊れるときは意外にあっさり壊れる。特に内部配線の接触不良が多く、電気周りはおせじにもデラックスな造りとは言えない。このアンバランスさが魅力であったりする。

 

何でここまでエキセントリックなのか

一言で言えば旧HP電卓は70年代の生き残りだからである。

21世紀初頭にデジカメが「わっと」現れた時を思い出して頂きたい。各メーカーがこの新規なテーマに取り組み、実に様々な形状・構造・操作性・機能のものが乱立した。珍妙な物も多かったが実に楽しい時代だった。それから十数年経った今、ユーザーの好みも絞られ合理的な構造も確立されたので、市場にあるのは「洗練された」製品ばかりである。

HPは70年代の黎明期から関数電卓を作っている。RPN方式も機体構造も当時の「合理性」に基づいており、今の観点でエキセントリックと言うことはお門違いなのだ。そのHP電卓が21世紀まで大きな変化なしに作り続けられたのは、良く言えば保守的なこだわり、悪く言えば大企業にありがちな小回りのきかなさの結果だった。

現行のHP電卓(電卓事業停止騒動以降の機種)はさすがに旧HP電卓の構造を踏襲できなかった。これが「色々な点で残念な造りになってしまった」と書いた所以である。しかしRPN方式の電卓を作り続けることにしただけでも大感謝である。

 

こんな利点も

旧HP電卓は行方不明になりにくい。

会社に私物の電卓を置いていると、皆が勝手に使ってしまいにはどこに行ったかわからなくなってしまうものだ。ところが(HPの)RPN電卓は手にして計算しようとした瞬間に「使い方がわからない」という事態になり、元の場所にそっと戻されることになる。

実は旧HP電卓は現在希少品扱いで、ネットオークションで新品以上の高値で取引されていたりするのだが、そもそもこんなものが置いてある場所は一般人が出入りするところではないので金銭的な盗難に遭う可能性も低い。

そして我々にとって最大のポイントはHPと書いてあることだ。何をばかなことをと言われるかもしれないが、我々の世代の技術者にとってHPというのは憧れのブランドであった。先進国アメリカの超一流測定器メーカーで、製品はどれもべらぼうに高価だったがさすがとうなる一流品ばかりであった。HP電卓も70年代に登場した頃は一ヶ月分の給料でも買えない代物だった。

今の若い子はHPと聞けば安いパソコンやプリンタのメーカーと思うだけかもしれない。HPに対して我々が持つブランド性はもはや郷愁の域である。

 

 

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