社会主義のRPN電卓

 

ITの恩恵

ITの発達は想像しなかった状況を多くもたらした。ネットオークションなどその最たるもの。世界中のレア物を居ながらにして物色できるなど20年前は考えもしなかった。決済方法や配送方法も進歩したので何の苦労もなく手元に取り寄せることができる。今回はそうして手に入れたMK61というRPN電卓について。社会主義時代のロシア、つまりソヴィエトで開発された代物である。

 

ソヴィエトの志宝、MK61(クリックで拡大)

 

こんなものがNIB(新品箱入り)のデッドストックとしてウクライナに存在し、それが40ドル程度で手に入るのだ。全く恐ろしい時代である。

 

別世界のRPN電卓

RPN方式は別にHPの特許ではない。どのメーカーもRPN電卓は自由に作れる。ただ売れないものをどこも作ろうとしないだけだ。HP以外のRPN電卓は例外程度にしか存在しない。この世界には。

ところが30年ほど前まではこの地球に「社会主義世界」という閉ざされた別世界があった。そこでRPN電卓が作られていたのだ。社会主義世界では工業レベル、特に民生用電子機器のレベルがおそろしく低かった。正直言って関数電卓など作れるレベルになかったのだが、必需品と考えられたので自力で開発したのだ。MK61はそこでは大メジャーであった。何しろ市場競争が無い世界だったので、人々はMK61を使うしかなかったのである。

社会主義世界が滅んだ後、そこにあった電卓は改良されることなくただ消えていった。流入してきた安くて優秀な電卓に抗えるはずはなかった。MK61は社会主義という地球規模の「ムーブメント」が生んだ奇跡の存在である。

 

想像通りのダメさ

まず上の写真をご覧頂きたい。灰色のキーが色分けされている。電卓では数字キーと演算子キーが色分けされていることなど良くあるが、なぜこんな不規則に色分けされているのか疑問を持たれると思う。実はこれは色分けされているのではなく

単にプラスチック素材の色がばらついているのだ。

これだけでソヴィエト工業の基礎レベルが知れるというものである。

スイッチを入れると子供の頃の記憶がよみがえってくる。青い、懐かしい光だ。

 

計算結果の表示部

 

上カバーを外した図

 

蛍光表示管である。70年代初めの電卓草創期は日本でも蛍光表示管が使われていたが、液晶という画期的な表示デバイスが実用化するとあっという間に置き換わった。MK61が開発された80年台後半の時点でソヴィエトはまだ電卓に液晶を搭載する状況になかったのだ。

さて、操作をしてみるとキータッチがフニャフニャである。押したかどうか指の感覚ではわからない。分解してキー周りの構造を調べてみると、やはりとんでもなかった。

 

 

キーの裏側に穴あきスポンジが。これでキーを押し戻しているらしいが、あまりの粗末さに絶句である。

 

 

キー下の基板。重ねられた透明フィルム側にCOMMONパターンが引いてある。基板側パターンにはレジストもない。(わからない方、申し訳ありません。要するにものすごい構造だということです。)

 

 

COMMONパターンは平面のフィルムに引いてあり、その下の穴あきフィルムで基板から浮かせている。キーを押すとフィルムがたわんで基板と接触する。この構造ではキーのクリック感がなくフニャフニャなのは当たり前である。

外装のプラスチック成形も粗雑で、合わせが悪いので持つとギシギシ言う。皆さんの想像に反しない。

このMK61がが作られたのは私が大学を出て社会人(技術者)になった頃である。その私が「見たことがない」テクノロジーで作られている。私は過去にソヴィエト製のカメラをいくつか入手してそのプアな造りに驚いたことがあるが、要するに民生品全般がこんなレベルだったのだ。

 

 

足付きの抵抗を組み合わせて作った手作り感あふれる抵抗アレー。それを空中配線で実装している。こんなものを日本で作ったらいくらコストがかかることか。

 

 

基板裏には別ユニット(おそらく蛍光表示管のドライブ回路)があるが、コネクタは使われておらず手ハンダによるワイア接続である。数少ない表面実装部品もすべて手ハンダ。「手作り」と誇っても良いレベル。

 

計算はできる

計算はできる。電卓の世界にもマニアがおりMK61に関する記事もWeb上に多数ある。そこで「計算結果が合わない」という報告は見つからないので問題はないのだろう。私はMK61を実用で使う気はないので検証するつもりはさらさらないが。ただやはり計算速度は遅い。三角関数の演算結果が出るには一呼吸(2秒ほど)待たされる。その間表示がブラックアウトするので今の子が見れば故障していると思うかもしれない。

現代はどこにでもPCがあるので複雑なプログラム演算などはそれにやらせれば良い。関数電卓は目の前の数字をただ計算するだけの用途になりつつある。しかし昔は関数電卓にプログラムを組んでバッチ計算をやらせていたのだ。MK61の計算速度はそれには少し苦しいレベルだ。

操作系は練られているとは言いがたい。先に述べたようにキーにはクリック感がない。キーの配置も工夫がない。旧HP電卓は一見無骨に見えるが、ENTERキーを大型にして数字・四則演算キーを他のキーから少し離すなど細やかな配慮がある。MK61のキーはただ均等に置かれているだけだ。キーの機能割り当ても良くない。何しろ頻繁に使う三角関数や平方根までも数字キーと共用しているので、RPNの特徴である「快速入力」ができない。総合評価としては「使えないことはない」というところか。

電源は単三3本だが、蛍光管表示なので多分もたない。自分で実測検証する気はない。耐久性は不明だが、これも自分で検証する気はない。

 

正常進化していれば・・・

ソヴィエト崩壊後もしMK61が西側の技術を取り入れ正常進化していたら、21世紀初頭に起こったHP電卓事業停止騒動の時に「最後のRPN電卓」として大脚光を浴びていたのでは・・・などと想像する。総じてこういう異世界の文明は進歩せず状況が変わればただ消えてゆくだけだ。私の知る限り今のロシアに電卓メーカーはない。あったとしてもどこかアジアのメーカーからOEMを受けているだけだと思う。

合理的で便利な世界が楽しいとは限らない。

 

 

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