エミュレータという悪夢

 

この悩ましき存在

第二話第三話でRPN電卓というマニアックなガジェットを話題にした。今や旧HP製品の実機などは希少品で入手困難である。しかしここに来て悩ましいものが現れた。スマホに上で走るエミュレータである。まずは以下の写真を見てほしい。

 

右が本物のHP48G+、左がAndroidスマホ(NEC N-08D)上でDroid48というエミュレータを走らせたもの。

 

この写真だけを見れば、左側はHP48G+に白い枠を付けた物に見えてしまう。もちろん7インチのタッチスクリーン上に表示された画像なので、実際は真っ平らでキーを押しても物理的な凹凸を感じられるわけではない。表示部などは実機の低コントラスト液晶をわざわざ再現している。

このDroid48、フリーウェアである。Androidスマホを使っている人ならだれでも無料で導入できるのだ。

HPのRPN電卓は大メジャーなのでこんなエミュレータを作るマニアがいても不思議ではないが、何とソ連製MK61にもAndroidスマホ用エミュレータが存在する。

 

右が本物のMK61、左がAndroidスマホ(NEC N-08D)上でMK61/54というエミュレータを走らせたもの。

 

 

本物のMK61は前面のスライドスイッチでオン・オフする。MK61/54エミュレータでも仮想スイッチがあり、右にスライド(タッチしてドラッグ)させると蛍光表示管っぽい光で数字が浮かび上がる。脱帽の再現力である。

 

昔からエミュレータはあった

この電卓をエミュレータで再現しようという試みは前世紀から存在する。PC上で動くHP電卓エミュレータなどは大昔からあるのだ。ただ、PC上のエミュレータは持ち運びすらできず当然実機の代わりにはならない。

私は電卓というものは、普段そこら辺に転がっていて、必要になったら手にとってポンポン押して計算し、終わったらまたそこらに転がしておく、そういうワークスタイルのためにあるガジェットだと考えている。PCに電卓が標準で実装されている現代でも、経理の机の上にはPCと並んで大柄な「経理用電卓」が転がっているのだ。使い勝手も性能の一部。何も良いところがなければそんなガジェットは存在しないのである。

21世紀の初め頃まではPDAと呼ばれるガジェットがあった。いわゆる「電子手帳」のことで、いまや絶滅種である。PDA上で電卓エミュレータを走らせようという試みも数多くあったのだが、当時のPDAは計算能力が非常に低く、表示も粗く、タッチスクリーンの出来も悪かった。電卓としては実機に全く及ばず使い物にならなかった。そして結局はPDA自体が「使えないガジェット」ということになり消えていった。

そして21世紀が10年ほど過ぎた頃、スマホという化け物が現れた。

スマホは「普段そこら辺に転がっていて、必要になったら手にとってポンポン押して計算し、終わったらまたそこらに転がしておく」という機能条件を完全に満たしている。上の写真で明らかなように十分な表示能力を持っているし、タッチスクリーンのレスポンスも問題なし。肝心の計算能力に至っては本物の電卓より桁違いに上である。特にMK61については実機がソヴィエト製の「いつ壊れるかわからない」粗悪品であることから考えれば、「そんなものは使わずエミュレータを使いなさい」というのが正直な意見である。

 

仮想現実が実体を脅かす

実機には使った時の「感触」があり、これはスマホには再現できない。机の上にHP48G+とスマホが転がっていたら、私はもちろん実機を使う。ただ、出先ではどうだろう?HP48G+を持ち歩いたりはしないので、スマホ上のエミュレータを使うことになる。7インチスマホで走らせるとキーが実機より一回り大きくなるので、「むしろこちらの方が快適?」という考えが浮かぶ。

 

いかんいかん

 

私の中で実体が仮想現実に負け始めているではないか。

私のHP48G+が壊れたらどうするだろう。当然ディスコンの機種なので、実機にこだわるのならまだ動く中古を探すしかないわけだが、そんな情熱はないだろう。関数電卓は毎日使うものではないし、私の技術者としての寿命もそう長くない。「しょうがないな」とあきらめてスマホエミュレータを使うことになるだろう。

このコラムを読んでRPN電卓に興味を持った人がいるならば、私はまずエミュレータでの試用をお勧めする。何しろタダである。iPhone用RPN電卓アプリについては詳しく知らないが、おそらくあるだろう。使ってみてハマれば実機に手を出せば良いが、エミュレータから始めた人が実機に手を出す必然性を私は見つけられない。

良く出来た仮想現実は、本物にこだわる人間を懐古趣味のロートルにしてしまう。

 

 

 

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